チカラの技術

電子工作やプログラミング

読書

最近はもっぱら技術書やデータシートばかり読んでいるのだが
今日は久しぶりに小説を読んだ。
 
ダニエルキイス「アルジャーノンに花束を
 
多分、3回目くらいの読み返しにはなると思う。
世界中の評価に違わぬ素晴らしい作品である事はもちろんなのだが
この作品が好きなのは別の思い入れもある。 
この小説の主人公、チャーリー・ゴードンと自分を同一視する事がままあるからだ。
 
知らない人の為にあらすじを説明すると、


チャーリー・ゴードンは32歳にして幼児並の知能しかもたない、精神遅滞者だが
並外れた向学心が評価され、知力を増大させる手術の対象者に抜擢される。
手術は成功し、チャーリーゴードンは精神遅滞者から天才になるのだが・・・・・


チャーリーは賢くなりたい理由をこう話す。
「皆と一緒にお話がしたい。仲良くなりたい」
「勉強を教えてくれる先生に喜んでもらいたい」
 
そして、望みどおり知力が増大し自分を取り巻く人々の
自分に対する思いを理解するまでに至った時、絶望を知る。
 
このくだりまで読んだ人は「チャーリーは本当に賢くなって幸せだったのか?」と自答すると思う。
俺も、未だにそれが分からない。
何回読んでも。


知識が増える事の弊害。
それは自分にも言える。
 
俺は馬鹿だけど向学心を持っている。
知識を授けてくれる人たちに日々感謝を持って、
なるべく自分も情報を発信したいとは思うし
今は電子工作が楽しいと感じている。
 
ただ、電子工作があるレベルを超えたとき、いつか周りを見下すようになるのではないかという恐怖もある。
現状に劣等感を持っている裏返しで、「そのやり方じゃ駄目だ、こうしろああしろ」と
人の趣味に自分のやり方を強要するような(助言とは別)、人間になりはしないかと恐れている。
 
どんなに俺の電子工作レベルが上がろうが、それは俺の趣味であり
自己完結すべき評価と価値なのだという事を肝に銘じておかなければならない。
 
問題なのは俺が電子工作をどれだけ出来るかではなくて、どれだけ楽しんでいるか。
その上で向学心や知識というのは輝いてくるのだろう。
知識があれば、賢ければ何もかもうまくいくなんて事はないんだと。
 
今日改めて、知識や知能について自問したらそんな事を考えた。
だから俺はいつまでも「学びたい馬鹿」で居たい。